周防正行監督の『シコふんじゃった。』には、全体に、そののんびりしたトーンがあります。
実はそういう青春映画は稀なのです。
青春はやたらに美化されたり、みっともなく描かれたりします。
まあ、無理もないところかも知れないのですが、別に自分は夜な夜な情熱をダンスにほとばしらせていたわけでもないし、コンクリートジャングルの片隅で生き急いでゴミ箱を蹴とばしてたわけでもありません。
いっそ、そういうことなら話はわかりやすくて助かったのですが、あいにくというか申し訳ないというか、自分は16年も「学校」へ通ってしまうような人間でした。
今、DVDのパッケージを見たら筋書きが要約されているので丸写しします。
「コネで一流企業への就職も決まり、あとは遊びまくるだけの生活のはずだった教立大学4年生の山本秋平。
しかし単位とひきかえに穴山教授が顧問をする相撲部員となるはめに・・・。
相撲への情熱だけは人一倍の8年生、青木のもとによせあつめの部員5人が集まった。
伝統ある部の存続をかけて、軟弱大学生たちの涙と笑いの挑戦が始まった」
この映画で言いたいところは一点、めぐり逢わせの問題です。
「教立大学4年生の山本秋平」は単位めあてに相撲をとることになりました。
16年も「学校」へ通っていると、ひょんなことから相撲をとるようなめぐり逢わせになるのです。
それは不幸とか不運というのと似ています。
不幸とか不運だなんて言って暗い目をしても仕様がないことですが、相撲をとる立場であったり、わたしの学生時代の事柄でいうなら転校をしたり、いきなりミニコミ誌を出すようなことになったり、そうしためぐり逢わせのなかで人はどうしようもなく1人になるのです。
1人であることに気づくのです。
その地点から世間との距離を測って、立とうとします。
出来事が折り重なってやって来て、頭ぐらぐらするのです。
泣くに泣けないこと、笑うに笑えないこと、怒るに怒れないことが数珠つなぎでやって来ます。
または泣き笑い怒る。
そうして頭ぐらぐらしている間に、誰とも何とも譲れない自分があるのです。
「オレは今やっと、自分の足で四股を踏み始めたところなのだ」
周防正行の同名小説(太田出版刊)の結びの一行です。
全力疾走でも崖っぷちでもない「山本秋平」はあぐり逢わせの末、そこへたどり着きました。
その「自分の足」で踏む「四股」を今後信用していいかどうかは別問題ですが、今、彼にはそれだけがあって他に何にもありません。
「学校」は風化しても、それはずっと残るのだと思います。
6・3・3・4だから16年になります。
16年もの歳月、わたしは「学校」というところへ通っていたのです。
他に生きる途がなかったとはいえ、よくもまあ16年も続けたものだ・・・と思ってしまいます。
16年も続くものといったらのんびりしていると思います。
全力疾走で16年、崖っぷち絶体絶命で16年というわけにはいかないでしょう。
そういうせかせかしたものは2、3年で終了してしまうでしょう。
今、思い返してものんびりしていたのです。
のんびりしていて、その都度自分にふりかかるめぐり逢わせと暮していたように思います。
幼い頃は転校を繰り返していました。
これが昔の少年マンガのようにケンカして学校を転々としていたのなら因果は自分にあります。
物語のようなものを自分で描けるのです。
そうではなくて全て父の会社の辞令が理由なのでした。
自分のあずかり知らない会社の人事で、思い出もそれまでの行きがかりもサヨナラです。
縁もゆかりもない土地へ暮しごと移動。
そのとき現在というものを形造っていた諸々が根こそぎ形を変えたのです。
どうにもならないのだから楽天的でした。
どうせ2、3年周期だと思って嘘ばかりついていたのです。
冗談を言うのとケンカがそこそこ強いのは必要上、身につけました。
新しい土地で「前の学校でピッチャーをやってたんだ、ピッチャーをやらせろ」と嘘をつくのも、友達に馴じむ手順のようにケンカするのも、又これかよと思いながらものんびりとこなしていたのです。
その辺を突きつめて崖っぷちまでたどり着いていたら到底16年も「学校」にいなかったでしょう。
面倒は面倒、退屈は退屈でしたが、幸か不幸かわたしはそういう性質だったのです。
わたしは社会人になってしばらくしてから、デビッド・リンチの『イレイザーヘッド』を見ました。
このとき、デジャヴのように襲ってきたのは、底辺の下宿生活者としてのわたしをとらえていた浪人時代の妄想でした。
あの1年のあいだに起こったことは冗談のような、夢のような密度をもっていたからです。
『イレイザーヘッド』はリアリズムです。
木や森に親しんでいたリンチは、初めての都市フィラデルフィアでの下宿部屋でのすえた暗さに、わたしのごとく打ちのめされたにちがいないでしょう。
わたしの映画人生に決定的な影響をあたえた『ブルー・ベルベット』もまた、上京して初めて遭遇したアザーサイド・オブ・ザ・ワールドを追体験させるものであり、また自分が育った田舎の人間関係を別の相のもとに見直すきっかけとなる映画でした。
『ツイン・ピークス』もリンチ演出のヨーロッパ・バージョンを繰り返し見れば世界がゆるやかに崩壊していくのを体で感じることができます。
もしあなたが都市の大学に進学する気のある田舎の高校生なら、なるべくいろんな人間の住む雑然としたアパートに入ることをすすめます。
他人の生活を「覗く」ということのスリルとセックスの不可解が君を虜にすることは確実です。
覗きと勃起。
あなたは崩壊するでしょう。
人生が訳のわからないものになることは必至です。
まったく人生なんて訳がわからないのです。
歳をとれば安定した距離と態度がとれるかと思っていましたが、家庭があろうが、子供が3人いようが関係なく、ますます混迷してきたというのが実感です。
観念肥大の淋しき生活者に、リンチ作品は救済であり続けるのです。
15~6年まえ、LAに長くいたことがあります。
当然ながら日本のように治安はよくありませんでした。
大袈裟かもしれないのですが、死を考えない日は1日もなかったのです。
毎日、"今日こそ黒人に殺されるぞ"と観念していました。
実際、ダウンタウンのドラッグストアにいたときなど、映画の『ニュー・ジャック・シティ』に出てきそうな黒人数人がピストル片手に強盗しに来たし、友人の母親などガーディナの街で中指をナイフで切りとられて指輪を盗まれました。
警察は一言、「生きててよかったじゃん」というくらいのもの、懸念は存外はずれていないのです。
ビバリーヒルズやメルローズなどで白人を見ていると映画のようにまばゆいばかりですが、ハリウッドの紫街で黒人に囲まれると、こちらが世界的スターでもないかぎり死にたくなります。
まさに光と闇。
"人種のるつぼ"・・・その失敗例が当時のLAにちがいないでしょう。
黒と白は解りあうことはない、なんていえば、「浅薄すぎる偏見だ」と反駁されるでしょうが、私は白人と日本人以外の人種に偏見を持っているのだから仕方がありません。
いわんや白人は白人種以外は信じていないでしょう。
それは好悪だけの問題ではなしに、恐怖心から異人種に対し銃口にも似た険しい視線をむけるのです。
いや、人種の問題だけではないのかもしれません。
「この世のだれもが自分とは異なる人種である」。
そんな対人関係の恐怖が『ブレックファスト・クラブ』に登場する5人の傷ついた視線にも見えかくれしています。
とは申せ、"いま世界じゅうの俳優でだれが好きか?"と訊かれれば、私は躊躇わずにプリンスとエディ・マーフィの2人を挙げます。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』(スパイク・リー監督)で、こんな場面がありました。
「マイケル・ジャクソンやカール・ルイスは好きだろ?」黒人がイタリア系白人にいいます。
「なのになぜ、あんたらはおれたちを馬鹿にする?」
「そりゃマイケルとかは好きさ」と白人。
「やつらは黒人を超えた黒人だからね」
白人に愛されるため、私は"日本人を超えた日本人"になろう・・・。
映画でそれを学んだのです。
『ブレックファスト・クラブ』のストーリーはとても単純です。
5人はそれぞれ学校で問題を起こした生徒であり、ある日、土曜日の朝早くに教室で補習をさせられ作文を書かされます。
その課題は、「自分とは何か?」。
ストーリーは補習の1日を描いたもので、5人はたがいに残り4人と傷つけあい喧嘩しあい解りあい恋をしあうのです。
かれらは自分たちの家庭の悩み、心の病いなどを涙ながらに吐露しあいます。
「あたしたちって月曜日も友だちかしら?」と最後にモリィ・リングウォルドはいいます。
「いまは、ぐうぜん知りあって喋ってるけど・・・」
「月曜はちがう」
4人は首をふります。
「おたがい、『やあ!』って階段で挨拶するだけさ」
長い1日で5人がいかに人生開眼し、「自分とは何か?」という大人たちの問いにどんな結論を出すかは観てのお愉しみですが、たまらなく切実な映画でした。
老いゆく自分が厭になって死にたくなるときありますよね。
できれば13、4歳の青くさい果実の匂いがする日々にもどりたい・・・
そんな希いも映画なら叶えてくれます。
『小さな恋のメロディ』、『マイ・ガール』を観ればよいし、ジョン・ヒューズ4部作など最適。
『すてきな片想い』、『ブレックファスト・クラブ』、『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』、『恋しくて』は、すべて傑作です。
『恋しくて』は40回くらい観たでしょうか。
メアリー・スチュアート・マスターソンの魅力炸裂である(あの"涙、涙、涙"の超感動ラストシーンに涙して、「ああ、自殺するのは今夜はやめよう」と何度思ったか知れません。
『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』、『すてきな片想い』はモリィ・リングウォルドの表情が出色。
4部作はどれも高校を卒業してゆく若者たちの一瞬の燦きを映した青春ドラマですが、『ブレックファスト・クラブ』には暗い影が漂っています。
アメリカを蝕むあらゆる病理がモリィ・リングウォルド、エミリオ・エステベスら若者たちの顔からうかびあがってきます。
だいたい白人のハイスクール映画は能天気でいいですよね。
日本みたいに受験という変な重力がないから若者たちの顔は生き生きしているし、LAの青空や少女たちの金髪の靡きが画像をとてもまばゆいものにしています。
しかし、『ブレックファスト・クラブ』には、そんな能天気さはありません。
5人の生徒はだれもが傷ついた問題児なのです。